【オススメ「自分史」】
「湯川家に生を受けて」(著:湯川春洋)
父は、あのノーベル物理学賞の湯川秀樹。
祖父は大阪で名医と呼ばれ、3人の伯父はいずれも東大か京大の(名誉)教授。
本書は、そんな名家の長男として生を受けた春洋少年の挫折とコンプレックスに満ちた半生を綴った一冊である。
幼いころの記憶。
父に連れられた先は、アインシュタインの自宅だったこと。
父と弟は阪神ファン。春洋少年は、巨人ファンだったこと。
父に読み聞かせてもらった「水滸伝」が楽しかったこと。
しかし、将来は医者か教授になるのが当たり前と期待された。
少年はやがて大阪にある大学の理工学部に進学するが、周りからの大きな期待には応えられなかった。
どれほどの重圧が彼の肩にのしかかっていたのだろうか。ついには、在学中に心を病んでしまう。
当時の新聞には、
「湯川秀樹の長男は病気。次男は有望」
そんなふうに書きたてられたという。
しかし、心の病と闘っていた彼にも、心惹かれる「世界」があったようだ。
それは周囲から期待された世界とは間逆の、文学の世界。
結局彼は文学部へ編入し、卒論を「馬琴の小説の人生観と中国文学」とした。
卒業後は、出版社に勤務するかたわら、京大の大学院を目指すが、これも挫折する。
そうした幾たびの挫折とコンプレックスに苛まれながらも、春洋青年は「近世演劇研究者」としての道を進みはじめた。
それから40年後、ついには近松門左衛門の研究家として36冊にも及ぶ著書をしるすに至ったのである。
ところで、大学在学中に彼の心の病を救い、そして生涯をかけて進むべき方向を決定付けたものは、なんであったか。
「水滸伝」をモチーフに書かれた滝澤馬琴の「南総里見八犬伝」である。
そう、幼き日に父秀樹に読み聞かせられた「水滸伝」こそ、実は彼の生きる支えだったのである。
本書の「あとがき」で春洋氏は家族にこう記している。
「正しく能力が認められ、無駄な苦労を私の如くにしなければならないことのないように祈る此の頃である」と。