呉市にある「大和ミュージアム」です。
三方を山に囲まれ、入りくんだ湾奥にある呉の港は、敵からの襲撃を受けずに軍艦を製造するのに最高の立地だったそうです。
ここで製造された戦艦「大和」にかけられた費用は、当時の国家予算の3パーセントにあたります。中でも主砲の口径サイズは最大の軍事機密で、大和の製造は徹底的に外から見えないように隠されたと言います。その大和を製造したドックは今もこの港に残されていました。
大和は冷房設備、水洗トイレ完備、超大型の冷凍庫を持ち食料も潤沢だったと言います。同じ頃、南方の陸軍兵は食うや食わずで、餓死していたというのは皮肉なことかもしれません。
そんな日本海軍の誇りだった「大和」ですが、最後は負け戦と知りながら沖縄戦へ向けて出撃していきました。しかし、艦の首脳部では「無駄死にはやめよう」 という意見と「命令に従え」という意見に別れました。この時に一人の将校が放った一言で、全員の意見がひとつにまとまります。
「負けて目覚めるのが最上の道だ。日本の新生にさきがけて散る、まさに本望じゃないか」
つまり「大和」が撃沈されることで、日本もようやく目覚めるだろう。新しい日本のために、自分たちが礎になろう、と呼びかけたわけです。
こうして「大和」と運命を共にして、海へと消えていった乗組員の数は3000人以上。一方、この時の戦闘で命を落とした米兵の数は10名ほどだったそうです。それほど無謀な最後だったということです。
ミュージアムの外には大和の実物大の甲板を模した広場があります。70年の時を経て、その甲板の上でスケボーを楽しむ若者たちの姿がありました。